(全く、数馬さんときたら……)
長屋を出て数刻。町のはずれにかかる人気のない橋の上で、ぼんやり川面を眺める春哉の姿があった。春とはいえ、まだ肌寒い時期に半纏(はんてん)もまとわず着流しの男が一人ぽつりと佇んでいる光景は絵にはなるが、どこか不気味でもあった。
(私がどんな思いでいるかなんてちっともわかっておられない。私にはもう数馬さんしかいないのに)
かつて春哉自身は陰間として生きることに何の抵抗も感じていなかった。家族も親しい友人もいない中、生きていくためにはこうするしか方法がない。欲しいものもない。ゆえに勝手に貯まっていた金も必要なかった。あの頃は何事に関しても無関心だったのだ。
そんなとき数馬が現れた。この界隈に多い、いかにも遊びなれている浪人といった感じの客だったが、不思議と既視感がなかった。
事後、金だけ置いてさっさと出て行く客が多い中、数馬は違った。毎回、汗に濡れた春哉の身体を丁寧に拭いてやり、春哉の中の洗浄まで行い、衣服を整えてやる。部屋を出る前には必ず優しい笑顔のまま軽く口づけしてから部屋を出て行った。
そんな関係が続くと春哉にも欲が出てくる。「この人は自分を本当に愛してくれているのかもしれない」。自惚れでもいい。勘違いでもいい。一方的にでもこの人を想うだけで、心の中が温かくなる。
しつこい客を追い払った一件で数馬が用心棒として雇われることとなり、同じ店で顔を合わすことが多くなった。数馬と春哉は店の者の目を盗んでは逢瀬を重ね、その仲はより親密になっていった。そして数馬は謝礼として春哉を所望した。花形である春哉が店を辞めることは、店がつぶれるに等しい損失であったため、茶屋の店主は頑なに拒否した。
そこで春哉が稼ぎとは別に客の好意で貰って今まで貯めてきた金を全て店主に引き渡すことを条件としたところ、店主は渋々ながらも送り出してくれた。なにせその金の額というのが大層な額であった。春哉にとっては数馬と共にあることが大金よりも価値のあることだったのだ。
こうして同じ屋根の下で幸せに暮らしていたわけだが、春哉は数馬に肌を許すことはなった。店で逢瀬を重ねていた時も仕事に支障が出るからとなるべく断っていたので、実際のところ数馬が客として店に来た数回だけ、肌を許したことになる。このことが今回の喧嘩の原因になったわけだが。
(だって……店にいた頃に慣れすぎて、その頃からあまり感じなくなってたし……)
感じなくなったことが数馬にバレたら数馬だっていい気はしないだろう。
それに春哉の中ではそういう行為は“商売”である。本来好いた人間としかしない行為ではあるが、春哉の感覚は既に麻痺していた。特別な存在である数馬とはこんな行為ではなく、別の方法で愛を確かめたい。
(別の方法……?)
例えば逢引とか口付けとか……。口付けはそういう行為の延長かもしれないけど。でも逢引なんてしたことがない。店に来る客はそのようなことに気を回す必要がなかったから。
でも数馬となら……してみたい。
(そりゃ数馬さんだって欲求不満なのかもしれないけど……。欲求不満?)
それって自分とそういう行為をしたいと思ってた?それなのに自分の勝手で数馬の想いに応えてあげられなかった?そうだ、だから女なんかに……。
頬が紅潮して行くのがわかる。身体を支えていた橋の欄干から身を起こすと、長屋の方角に向けて走り出す。
(私のせいじゃないか!数馬さんは何も……)
その姿を物陰から見つめる目が一対。狂気の光を宿したそれは、春哉が走り去った方角を眺め、やがて消えた。